ゼロイチという人間らしさと、自動運転する車

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以前のブログで、人間が機械と違って人間らしく価値を発揮するものとして、3つ挙げた。

佐々木さん・松浦さんの対談から考える、人間らしさ

その3つが、ゼロイチ、遊びと文化、プロセス(ストーリー)だ。

「遊びと文化」に関しては、こちら
面白さという人間らしさ

 

今回はゼロイチについて。

ゼロイチとは、ゼロからイチを創ることだ。

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(写真は電気自動車。この記事の自動運転とは特に関係ありません。)

 

新しい企画でも仕事でも、必ずゼロからアイディアを持って、形にする仕事がある。

それがゼロイチだ。

一方でゼロからできたイチを十とか百とか、拡大していくフェーズもある。

 

機械ができないことはどちらだろうか。

ゼロイチは機械には難しいだろう。

なぜなら機械には、これがしたい、やりたい、といった欲望がないからだ。

その一方で、拡大の方向性がわかれば、AIや機械が活躍する可能性は大きい。

 

グーグルが車の自動運転に熱心なことは有名だ。

Googleの自動運転カーに試乗してわかった6つのこと

この記事とか、本当に面白い。

 

車が自動運転になれば、メリットは多いだろう。

日本でいうと、高齢者ばかりがたくさんいるエリアには、朗報だ。

高齢化で運転が難しくなったが、サポートしてくれる若者が近くにいなかったり、ちょっと買い物に行くにも車が必要なエリア。

無理に高齢者に運転を強いるより、自動運転をした方が安全安心な社会だろう。

 

当然だが、自動運転とはAI(機械)が運転することだ。

ここで1つのゼロイチは、まず自動運転する車を創ろうと考えることだ。

実際に運転するのは機械でも、その発想の起点は人間だ。

 

では自動運転のリスクはなんだろうか。

自動運転によって事故は減るかもしれないが、完全に事故がなくなる訳ではない。

自動運転車が事故を起こした時、責任を問われるのは誰だろうか。

自動車メーカー? 自動運転のAI(OS)メーカー? 車の所有者?

この辺の法整備が必要だ。

これまでには必要なかった論点だが、これからは重要で難しい議論だ。

 

また事故が避けられない場合、機械にどう対応するようにプログラムを組むか?

そのパラメータの設定は、哲学的議論が必要であり、機械にはできないゼロイチ作業でもある。

例えば、1人が乗っている車と、10人が乗っている車の衝突が避けられない場合、どちらの命を優先するか?

多くの人間を守るために、1人が乗っている自動運転車は、自分の乗員を死ぬ確率が高い動きをするべきか。

人数だけに限らず、怪我の程度や死亡のリスク、経済的ステータスとリスク(交通事故で負傷した場合の賠償金は、負傷者の資産収入などをベースに計算される。これは事実上、人の命は金に変えられているということ)、若さ(極端に言えば、赤ちゃんと100歳の老人どちらの命をとるか)などといった、色々なケースに関して、AIがどう行動すべきかという、人間はパラメータを入力する必要がある。

 

松浦さんと佐々木さんのパネルセッションでも、こうした話が出た。

コンピューターはツールでしかない。そのコンピューターをどう使うかの思想設計は人間。

車の自動運転に関しては、人間の命に関わる話だ。

これまで人間同士の事故に関しては、事件ごとに話し合いや裁判で決着をつけてきた。

しかし自動運転が導入されるのであれば、人間は何を大切にするのか、優先順位をつけなければならない。

 

当たり前だが、こうした作業は人間にしかできない。

私の挙げた3つの人間らしさの最後が、プロセス(ストーリー)だが、こうした哲学的議論からの優先順位決定に到るにはプロセスも重視され、それも人間らしさの1つだ。

今回はプロセス(ストーリー)に関しては、深堀りしないが、こうした簡単に皆が合意できる答えが見つからない問いに関しては、どのように議論・合意形成がなされたかというプロセスがとても大切だ。

そのストーリーを大切にする姿勢もまた、非常に人間らしいのだと思う。

 

ゼロイチの話からずれるが、AIなどのスーパーインテリジェンスについては、イーロン・マスクも読むことをオススメしていたこの本を紹介。

私も今読書中だが、こうしたAIの進化が私達にどう影響を与えるのだろうか。

ターミネーターの世界が現実味を帯びてきた現在、積極派も否定派もどちらの意見もしっかり理解して、自分なりの向き合い方を考えていきたい。

 

アリヴェデルチッ!