前回のブログで、最貧国はそもそも援助や協力が必要なのか、という議論をした。
私たちは貧困国に協力する必要があるのか
そこで、人道的援助というのは受け入れられやすい話だ。
しかし、「開発経済」という議論になるとまた別だ、と論じた。
今回はその続きで、開発協力や援助は必要とされているのか、という話だ。
(今回のブログの写真は、私がケニア視察で撮った写真)
開発経済の文脈において、「援助」という言葉は、議論の的だ。
援助は自立を阻害し、外からの干渉はうまくいかないという批判は常にある。
結論から言えば、私は手法をしっかり考えることは前提として、開発経済は必要だと思っている。
ただ、この議論はしっかり考えて理解すべきところだ。
途上国あるあるだが、アフリカで子供たちの明るくて幸せそうな顔を見ていると、こちらが元気をもらえる。
「よっぽど日本人より幸せそうではないか!」 そう思ってしまう。
日本人からすると劣悪な環境でも、本人が幸せであれば、特に何もする必要はないではないか。
極貧という生活は、私たちから見た視点であって、本人は自分達を「かわいそうなこと」だと思っていなければ、外からの干渉は必要ではないのではないのか。
ただどんなに幸せそうでも、例えばマラリアにかかって、死ぬ必要がないのに、たくさんの子供の命が失われる現実がある。マラリアは先進国では解決済みの病気である。
しかし、その薬が買えなかったり、マラリア防止の蚊帳が買えないので、救われないのである。アフリカの人も、皆マラリアが本来なら防げない・助からない病気でないことはわかっている。
でもどうしようもないのだ。
こうした緊迫した問題に対して、「援助なし」でどういった打ち手があるのだろうか。
ここに興味深い記事がある。
開発経済の第一人者で、国連ディレクターとしてミレニアム・ビレッジ・プロジェクトなどを手掛ける行動派経済学者のジェフリー・サックス氏と、「Dead Aid」でそもそもAidを全否定したアフリカ出身の経済学者のモヨ氏が、互いに激しく論戦を交わしている。
「Aid Ironies」 Jeffrey Sachs
↓その反論
「Aid Ironies: A Response to Jeffrey Sachs」 Dambisa Moyo
↓その反論
「Moyo’s Confused Attack on Aid for Africa」
Jeffrey Sachs and John W. McArthur
私はサックス教授を支持する立場をとっているが、一線の学者たちがこうしてウェブ論壇上で健全な激論を交わしていることは、素晴らしいと思う。
本論についてはサックス教授がことごとくMoyoの主張を論破しているし、その通りだと思うので割愛するが、ここまで数字ベースのfactまで違うというのは驚くべきことだ。逆に言うと、数字は自分の主張のために何でも持って来れる話なのかもしれない。
途上国の開発に関わるということは、人の人生や命に関わる領域だ。
色々な立場の意見を理解すること自体が 、有益だ。
基本的に開発反対な立場をとる学者では、イースタリーやモヨの議論は参考になる。
Moyoの言う通り、勿論ビジネスデベロップメントや市場原理を取り入れることは、アフリカの持続的成長には不可欠だ。
但し、それは不可欠だが、必要十分条件ではない。
今そこに病気で苦しんでいる人、亡くなっている人がいる。現場に行ってその現実を見て、その人たちを見捨てて、アフリカ人が自らそのビジネスを立ち上げ持続的成長をなし遂げよという主張は、大変厳しい。
ある意味、前回のエントリーで紹介した、マルサスに似ているのかもしれない。
なぜ開発経済の議論が難しいのか。
次回はその論点をもっと深堀りしていきたい。
アリヴェデルチッ!