先週UNICEF東京事務所代表の平林国彦さんの話を聞いてきた。
アフリカや途上国の話がメインで、この問題の根本は無関心・無責任・無行動だと、至極納得のお話だった。
そういえば昔、私もこんな記事を書いた。
私たちの生活は、なぜ「遠い世界の話」と切り離せないのか?
実は私は、一時アフリカや途上国の問題に多くの時間を割いて、取り組んでいた時がある。
アフリカと無縁のビジネス生活をおくっていた私の人生を変えたのが、この1冊だった。
読書当時、こんなマクロ的でありながら具体的な視点で、「世界の貧困」を本当にどうするべきか考えている天才がいることに衝撃を受けた。
それからどうにかして、本人に会い行ったり、色々な形でお手伝いをさせて頂いた時期があった。最近はこうした問題に対して、ささやかに支援をしてはいるものの、正面からアフリカやBOP、開発などに向き合いきれていないのは事実だ。
平林さんの話を聞いて、久しぶりにそっちの話題にふれたので、自分の頭や情報整理も含めて、ブログに書き残しておこうと思う。
2010年、私はアフリカのケニアとウガンダの現地視察で、自分の目で「極度の貧困」extreme povertyという現実と対面し、「最貧国の自立と援助」という根っこの部分に関して改めて考えさせられた。
開発や援助のやり方は様々だが、まずはそもそも援助や協力が必要なのか、という問いがある。
まず歴史的視点で、人類史上最近まで貧困というのはごく当然のものであった。
つまり、貧困は人の生死と同じで仕方の無いことだったのだ。
産業革命が始まる前までは、何十年かに一度は飢饉がやってきて人々が餓死していた。
有名な話ではあるが、有史以来産業革命まで、人間の生活水準は変わらなかった。
それが産業革命により、人類史上初めて持続的経済成長が可能となった。
しかしその恩恵を全ての国が受けれた訳ではない。
産業革命に波に乗れた国と、マルサスの罠に囚われたままの国に二分された。
この状況が今の世界でも継続されていると言える。
※マルサスの罠:「幾何級数的に増加する人口と算術級数的に増加する食糧の差により人口過剰、すなわち貧困が発生する。これは必然であり、社会制度の改良では回避され得ない」とする見方 (参照: wikipedia トマス・ロバート・マルサス)
マルサスはさらに、こうも言っている。(参照は同上)
『人口論』は次のような命題につながる。人口の抑制をしなかった場合、食糧不足で餓死に至ることもあるが、それは人間自身の責任でありこれらの人に生存権が与えられなくなるのは当然のことである。戦争、貧困、飢饉は人口抑制のためによい。これらの人を社会は救済できないし、救済すべきでないとマルサスは考えた。これらマルサスによる生存権の否定は、ジャーナリストのウィリアム・コベットなどから人道に反すると批判を受けた。
もちろん、歴史的にそうだったからとか、マルサスがこう言っているからという理由は、それが私たちがアフリカの現実を知って、無関心を装う理由にはならない。
例えばユニセフにおける、人道的援助ならば、反対はないだろう。
人道的に餓死しそうな人を助ける、ちょっとしたサポートがあれば治る病気の人を助ける、という点で、現代において反対意見は大きくないだろう。
では何が、本当の論点なのか。
なぜ経済開発協力か?、という点はこの問題に取り組もうとすればするほど、しっかりと考えるべき話だ。
人道的なサポートと、経済開発協力はある程度分けて考えるべきだ。
またこの問題は引き続き、考えていこうと思う。
アリヴェデルチッ!