週末に吉本新喜劇を観に行った。
面白いこと。
これって非常に人間っぽい。
前回のブログで、人間が機械と違って人間らしく価値を発揮するものとして、3つ挙げた。
その3つが、ゼロイチ、遊びと文化、プロセス(ストーリー)だ。
この3つでいうと、遊びと文化の中に「面白いこと」は分類される。
コンピュータは面白いことを作らないし、そもそもそんなことは期待されていない。
面白いことをする、または面白いと感じる行為そのものが人間らしくて、素晴らしい。
私は常日頃、
幸せだから笑うのではなく、笑うから幸せ
というポリシーをもっている。
面白いと感じたり、笑うという行為が、正に人間を人間たらしめているのだと思う。
遊びこと、文化は、人間らしい活動だ。
楽しむとか、遊ぶということは、AIにはできない。
AI(人工知能)が文化を創り出したり、遊びを作りだすことはできない。
コンピューターや他の生物を比較した時、人間を人間足らしめているもの。
この答えの一つである、遊びと文化は、合理主義的観点でいえば、“無駄”は人間の特徴だ。
それは時に長所であり、短所だ。
効率性を追い求める合理主義こそ結果、というビジネスであれば、人間は機械やAIに勝てないだろう。
だが、無駄のないところにイノベーションは起こらない。
無駄や遊びがあるところから、イノベーションは起こる。
カイゼンを繰り返す機械の作業の中に、全く次元の違うイノベーションは生まれない。
そもそも楽しいとか、面白いといった感覚を、数値で定量評価することは難しい。
だからこそ、こうした遊びや文化が人間らしい価値を生み出すのだろう。
ここで1つ質問。
あなたが今1000億円もらったら、何に使い、どんな人生をおくるだろうか?
一生使いきれない程のお金を持ちながらなお、さらにお金を増やしたいと思うだろうか?
なぜこれまで芸術や文化が、歴史的に貴族や大金持ちから保護されてきたのだろうか?
衣食住に満足した時、人々は芸術や思想に傾倒してきた。
だから中世ヨーロッパでは、本当のエリートは哲学や神学など思想や学問をやった。
思想を担う大学などのアカデミアや、美術・音楽・伝統文化などのアートも、多くの有力者やパトロンによって支えてこられたし、現在でもそうだ。
人間以外の動物は「足るを知る」生物だ。
不必要に狩りをして、殺生をしたりしない。
言い方を変えれば、無駄がない。
機械もその存在理由として、無駄がない。
一見生存競争という点では無駄に見える、こうした遊びや文化こそが、非常に人間らしくて、大事なのではないだろうか。
難しく書いてみたが、だから私はお笑いが好きなのだ。
アリヴェデルチッ!